学歴社会
いきなりですが、日本はなんだかんだで学歴社会です。
そこから外れて大活躍されている方も多数おられるのは事実ですが、それは目立つだけであって、現実としては大多数の方は学歴を武器の一つとして就職先を決め、そこで生活を成り立たせているわけです。良い悪いは抜きにして、まだまだこの流れは変えられないと思います。企業の都合がありますからね。
東京大学卒の人と中卒の人を雇うチャンスがあれば、大多数は東大卒を選ぶでしょう。ここに色々な属性がつくので単純には決まらない、と言いたいところですが、中卒は分が悪いです。
差別というのはまた別の問題で、綺麗事で会社を傾けるわけにはいかないのです。
応用が効かない勉強法の弊害
学歴があるということはそれなりに勉強をしてきたはずなのに、学歴だけしかなく使えない人、と言われてしまう方がおられるのも事実で、なぜそんなことが起きるのでしょうか。学校の勉強が社会に役に立たないとも言われますが、本当でしょうか。(高学力に対する揶揄もあるかと思いますが。)
これに関して、私は暗記とパターンマッチングで学校の試験がクリアできてしまうから、だと考えています。学校の試験の点数はそこそこ取れるが、そこから外れた事柄に関しては答えが出せない学習の仕方を覚えてしまった場合に、社会に出た後で苦労するという一面があると思います。
速度の問題を「はじき」で解くことを覚え、物理や科学の記述を避けそれ以外で得点し、とにかく公式集や問題集の解法を覚えて、パターンに当てはめて定期テストで良い点数を取る。推薦で大学に行ける枠が増えていったのもこれに拍車をかけたと思いますが、どちらにしても学校の試験において暗記で答えを出せるものが多すぎて、それが正しい勉強方法だと錯覚させられることが問題だと思っています。
社会を暗記科目にしてはいけない
社会は暗記教科です。と言っても多分否定されないと思います。
私は社会は人が作ったルールや出来事を学び、これからの自分の生き方に活かすための科目だと考えています。考える前提として地学や歴史の知識が必要になりますが、例えば「徳川家はなぜあんなにも長くトップに立ち続けたのか?」この問題一つとっても、暗記もパターンマッチングも通じませんね。近年、答えが一つに定まらない事柄について考えることが大切だという方針に変わり、今ではこの課題を出す学校が増えたようです。答えを求める声がネットに溢れかえっていますので。
ネットで調べるのはこれからも必要な力の一つだと思いますが、出てきた記事をそのまま咀嚼もせず使うのであれば、従来のパターンマッチングとさして変わらず、課題について調べる際に頭をどう使えば良いかという学び方は身につかないでしょう。
答えを出せば良いと錯覚させる指導や学習は弊害があると考えています。
答えを出す、ということ
どんな手段でも答えが出せれば良いと言うことになると、極論カンニングで良いですね。宿題をネットで調べること自体は否定しませんが、似たようなものだと思います。自分を磨くと言う点において、無意味です。その答えで宿題を提出して何が良いことがあるのでしょうか?課題を出せて怒られなければ良い?それでは、学習がつまらないものになりますね。
答えを出せば良い、という考え方の行き着く先はこんな感じだと思います。では、なんのために答えを出すのでしょうか。
学びの場では、別に江戸時代が長く続いたこと自体が大切なのではなく、それを導き出すためにどのように頭を使ったかが大切なのです。社会に出てからは、なぜ?の答えが必要になってきますが、それを導き出す方法を鍛えていないのに答えを出せるわけがないんです。
考える作業は時間がかかります。調べるのも判断するのも、答えを覚えてそれを出せば良いやん、とするのと比較して何十倍も時間がかかります。時には調べた内容が無駄になることもあります。しかし、そのような考える訓練をしないまま大人になったら、AIに使われる側になりますよ?
言葉は悪いですが、AIの奴隷になりたいですか?
考えればそれで良いのか?
答えを出すための前提知識は必要です。これを抜かした答えは陳腐なものになることがあります。先ほどの江戸時代の話でも、江戸時代の制作だけでなく、他の時代の変遷や海外の事情などを知っているかどうかで、答えは変わってくるはずです。知識がないということは、実はもっと深い答えがあるはずなのに、そこに辿り着く材料がない、ということですね。(個人の感想で終わるような結論や、車輪の再発明は避けたいですし、この理由から小学生のうちにSDGsなどについて考えるのは、あまり好きではありません。)
文部科学省の資料の中にも
これからの子供たちには、社会の加速度的な変化の中でも、社会的・職業的に自立した人間として、伝統や文化に立脚し、高い志と意欲を持って、蓄積された知識を礎としながら、膨大な情報から何が重要かを主体的に判断し、自ら問いを立ててその解決を目指し、他者と協働(※4)しながら新たな価値を生み出していくことが求められる。
「2030年の社会と子供たちの未来」より
という記述があります。「蓄積された知識を礎にするために」ある程度の暗記も必要です。考えるために知識を習得させることを疎かにする指導も見たことがありますが、間違っていると思います。そして、まだまだ入試が暗記で点数が稼げる関係で、塾業界では作業に時間がかかる「主体的に判断し・・・新たな価値を生み出していく」学習にはさほど力を入れることができません。記述の対策は増えているようですが。
これからの教育への期待
全方面に喧嘩を売るつもりはありません。塾は入試に向けて対策するのがその役割ですし、学校には時間も人手もありません。文部科学省の打ち立てた理念は素晴らしいと思いますし、これから活躍していく人材は挙げた通りだろうとも思います。
それでも、徐々に変わっていくと思います。現に私立は大きく変わっている学校がすでにあります。公立学校の課題も変わってきました。入試も情報が取り入れられるようになり、センターを共通テストに変え(大失敗した気もしますが)、何かしらの動きがあります。それ以上に世界の動きは早く、ChatGPTを始めとして考えることですらAIに奪われそうな勢いです。
この教室を作った目的の一つ
今の子供達が将来、どのような働き方、生き方をしていくことになるのか、今の状況だけ見て判断することはできません。たとえ判断できたとしても、正誤がわからずに方針を決めてしまうのもリスクがありますからね。それでも、自分で考えて自分で判断できる力を習得することができれば、間違いは起きません。
そのために、知識の習得と考える練習を併せ持ったものを学習の基本にできないか、と。
ロボットプログラミングでは考える力を養う特訓ができます。少し形を変えただけで答えが一つに定まらない課題が生まれます。今までの経験をどう活かすか、新しく見抜くポイントは何かなどを自分なりの力に応じて考えていくことになります。それを楽しんで臨めます。学校の勉強が嫌いでも、これなら・・・という子をたくさん見てきました。
そして、それを支えるのが算数や数学、理科は言うまでもなく、色々な資料を読み解くための読解力であったり、実社会の問題をロボットで解決する判断材料となる地歴公民を軸にした社会情勢を理解する力があれば、より良い学びができ、その中から本当に将来活躍できる力が身についていくと考えています。これを訴えかけることができる指導が、両方を扱うことで可能になるでしょう。
まとめ
学力は、自分の進路の幅を広げるためにも必要ですが、それ以上に役立たせられるかどうかは、その活かし方を磨いてきたかどうかです。社会や理科に強いということは、それだけ世の中の事象に対する判断材料を多く持っていると考えて良いと思います。自分がしようとしていることをより豊かに、より深く質の良いものにしようとしたときにその学力が活きてきますし、そうなる練習を早いうちに経験していただきたいと考えています。